皆さん、こんばんは。
旅ばかたくやです。
皆さん、カンボジア・プノンペンにある『トゥール・スレン』『キリング・フィールド』という施設をご存知でしょうか?
この記事を書いている私も恥ずかしながらつい先日まで全く知りませんでした。
施設の概要は、下記の通りです。
『トゥール・スレン』(通称:S21)はプノンペンにある政治犯収容所。
『キリング・フィールド』はポル・ポト政権下のカンボジアで、大量虐殺が行われた刑場跡の俗称。
…
ポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権下での狂気の歴史を今に伝える両施設に、本日足を運んできました。
※本記事には過激な表現が含まれております。苦手な方は大変申し訳ございませんがこちらでお戻りください。
また、本記事に訪れた施設の画像はありません。もしご覧になりたい方は、上記施設名で検索いただくと多数のレポートが出てきますので、そちらを参照願います。
この両施設のレポートをする前に、ポル・ポト、クメール・ルージュについて簡単に触れたいと思います。
といっても私も先日まで全く知らなかったのでお教えする立場にもないのですが…
参考程度にお読みください。
また、ご存知の方は飛ばしてください。
(wikipedia‐ポル・ポト、クメール・ルージュ、本日見学したトゥール・スレン、キリング・フィールドでのパンフレット、案内文を参考にしています。)
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1975年4月17日クメール・ルージュがプノンペンを占領したこの日から、カンボジアの地獄が始まります。
クメール・ルージュ(赤いクメール)とはこの時代を統治した元政党の名称で、
クメール・ルージュが統治した3年8ヶ月と20日の間で、当時総人口800万人ほどだった国において、200万人~300万人が虐殺されたといます。
今でもその正確な数字は分かっていないそうです。
それもカンボジア人が、カンボジア人を…です。
その指揮を執っていたのがポル・ポトです。
ポル・ポトが目指したのは毛沢東の思想を基盤にした「原始共産主義社会」であり、資本主義のすべてを否定することでした。
プノンペンを占領しクメール・ルージュがまず行ったのが、都市に住む人々を強制的に農村へ移動させることでした。
移動させられた人々は連日連夜、強制的に農村での食料生産に従事させられました。
それと同時に行われたのが、知識人階級を「反乱を起こす可能性がある」として殺害することでした。
医師、教師、学者、技術者等の知識人から始まり、粛清が激しくなった晩年には、メガネをかけた人、手が綺麗な人、外国語が話せる人など考えられない理由で処刑されたそうです。
そんな彼らが尋問・拷問のため、または処刑される為に送られた施設が、『トゥール・スレン』であり、『キリング・フィールド』なのです。
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まずは、『トゥール・スレン』へ向かいました。
この施設は、プノンペン市内の一角にあり、現在はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館となっています。
この施設が稼働していたのはわずか2年9か月。
その間におよそ2万人もの人が収容され、生還者は数名だそうです。
元は高校を改装したとのことですので、外観は本当に普通の建物です。
今でもこの施設で子供たちが遊んでおり、ここは学校ですよ。と言われても何の不思議もありません。
しかし、一歩中に足を踏み入れるとそこには異様な光景が広がっています。
建物内部の教室は独房や雑居房、尋問をするための部屋に改装されています。
尋問をするためとは書きましたのが、実際は拷問することで自白を強要し処刑する場であったとのことです。
無実の罪で捕らえられる。拷問される。苦しみに耐えきれず嘘の自白をする。処刑される。
まずは一番入り口に近い棟に入ります。
この棟では尋問が行われていたそうです。
その部屋にはぽつんとベッドが置いてあります。
金属製のベットです。
金属の足枷があります。
ベッドの下の床には、尋問・拷問のあとでしょうか。しみがあります。
格子柄のポップなタイルとのアンバランスさが、より一層恐怖を駆り立てます。
また、別の棟では、当時収容されていた人々の顔写真が展示してあります。
番号が振られ、真っすぐと正面を向き、こちらを見つめています。
彼らはこのとき何を考えていたのでしょうか。
次の棟は独房でした。
独房とはいっても元は大きな教室に、急遽作ったであろう壁で仕切られただけの雑な作りです。
そのスペースは1畳ほどで、何もありません。
また、壁には生き延びた方が書いたとされる拷問の様子のイラストが掲示されています。
殺害に使用したとされる農機具、拷問の器具なども展示されています。
最後に訪れた棟は、この収容所で発見された方の頭蓋骨が並べられ、慰霊の為の仏塔が置かれていました。
日本からの贈り物でしょうか。千羽鶴があります。
また、水、食事、線香などが手向けられていました。
隣でガイドの方が欧米人に説明していたのですが、毎日毎日何度も話しているだろう内容を、懸命に観光客に伝えようとしている真剣な彼の表情がとても印象的でした。
…
『トゥール・スレン』を後にし、プノンペン郊外にある『キリング・フィールド』へと向かいます。
自転車で1時間、車で30分ほど行くと、のどかな田園風景の中にある『キリング・フィールド』に到着します。
『キリング・フィールド』とは、ポル・ポト政権下のカンボジアで、大量虐殺が行われた刑場跡の俗称。と冒頭で書かせていただきましたが、このような刑場跡はカンボジア全土に300カ所以上あるそうです。
その中でも最も有名なのが、今回訪れたチュンエクにある『キリング・フィールド』です。
『キリング・フィールド』と言うとなにか観光地のような響きがあり、訪れたいと思うかもしれません。
しかし、このチュンエクの施設名は『チュンエク大量虐殺センター』です。
この施設では、オーディオツアーがあります。
入場料を支払うと各国の言語でガイドが流れるオーディオを貸してくれます。
もちろん日本語版もあります。
この施設ではおよそ2万人の人々が虐殺されたそうです。
そのほとんどが先ほど訪問した『トゥール・スレン』から移送された人々でした。
移送は夜に行われ、周辺住民はこの施設内で何が起こっているのか、全く知らなかったそうです。
ガイドを聞きながら、ゆっくりと施設を見て回ります。
施設とはいっても、建設物はほとんど残っていません。
ポル・ポト政権による支配が終わった後、飢餓に苦しむ近隣住民がすべてを破壊し、持ち去ってしまったそうなのです。
この施設の中で特に衝撃的だったのが、『キリングツリー』と『マジックツリー』と呼ばれる2本の木です。
『キリングツリー』通称:殺しの木は、乳児の足をつかみこの木に打ち付けて殺していたとのことです。
それも母親の目の前で。
発見当時、この木には血痕や衣服の切れ端、髪の毛等が付着していたそうです。
発見した人々はなぜこの木にそのようなものが付着しているのか理解できなかったそうです。
隣の穴を掘り返すまでは。
また、若い女性の遺体には衣服がなかったそうです。
伝統的に控えめなカンボジア人女性は、現在でもお風呂や海でさえも衣服を着用しているのに…です。
そして、衝撃的なことにここの兵士はそのほとんどが10代の若者だったそうなのです。
それも14歳以下の。
ポル・ポトは知識人、または少しでも学識があるものを虐殺しました。
結果信用できるのは、知識を持たず、無垢な子供たちだったのです。
『マジックツリー』はこの施設のほぼ中央に位置する大きな菩提樹です。
この木には大きなスピーカーが設置され、昼夜を問わず大音量で音楽が流されていたそうです。
処刑する際の、うめき声や叫び声が近隣住民に聞こえないようにです。
オーディオガイドにてその音楽を聴きましたが、なんとも異様で得体のしれない音でした。
オーディオガイドで印象的だった言葉があります。
『お釈迦さまがさとりを開いたのが菩提樹の下であったと言われています。しかし、ここの木ではそんな奇跡は起こりませんでした。』と。
最後に慰霊塔を見て回りました。
ここで亡くなられたすべての方を偲んで、大きな慰霊塔が建てられています。
中には発見されたおよそ9000の頭蓋骨が並んでいます。
拷問の激しさを物語るように、ヒビが入っていたり、へこんでいるものもあります。
慰霊塔には靴を脱いであがります。
慰霊塔横に線香とお花が置いてあるので、線香を1本いただきました。
お金は?と聞くと『いくらでも。気持ちでいいよ』と。
線香をあげ、手を合わせました。
ご冥福をお祈りいたします。
…
…
一昨日まで何も知りませんでした。
『プノンペン観光』で調べると上位に出てくるのが、この『キリング・フィールド』。
どんなところなのかな?と思い調べてみると、そこにはカンボジアの深い歴史が眠っていました。
アンコールワットってなんか良さそう。と思い訪れたカンボジア。
せっかくだから首都も寄っとこう。と思い立ち寄ったプノンペン。
偶然ではありますが、カンボジアの深い悲しみの歴史…ほんの一部ではありますが知ることが出来ました。
ただ、
知らなきゃいけないことじゃない。
知らなくたって楽しく、のびのびと生活できる。
知ったところで生活が豊かになるわけでもない。
でも、
でも、
もう少し外の世界に興味をもって調べていても良かったな、と今となっては思います。
…
『キリング・フィールド』を後にし、自転車を走らせます。
途中スコールに降られます。
なんとも言えない感情が胸につっかえたまま、自転車を借りた旅行会社に向かいます。
自転車をお昼に借りた時と同じ若い女性がいました。
びしょ濡れの私をみて、大丈夫?という顔をしています。
彼女に今日私が見てきたことについて話を聞きたい衝動に駆られます。
カンボジアの人々はあの件についてどう思っているの?と。
聞けませんでした。
タオルで頭をふき、お会計をします。
お昼に自転車を借りる際、1.5ドルと聞いていたので、5ドル札を1枚差し出します。
おつりをもらうと1ドル札が4枚。
あれ、多いよ?と思い彼女を見ると、
『0.5ドルおまけしときました!』と笑顔でいいます。
彼女の笑顔を見たとき、胸につっかえていた重いものが、少し軽くなるような気がしました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
それでは、また!
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